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2008年02月15日

コピーレフト

こんなものがあったんですね。

コピーレフト (copyleft) とは、著作権 (copyright) に対する考え方で、著作権を保持したまま、二次的著作物も含めて、すべての者が著作物の利用・再配布・改変できなければならないという考え方である。1984年にフリーソフトウェア財団を設立したリチャード・ストールマンによって提唱され、初めはソフトウェアに関して用いられたが、その後、ソフトウェア以外の著作物にも適用しようという動きがある(クリエイティブ・コモンズなど)。

しばしば、GPLやGFDL等(後述)の特定のライセンスを指すこともある。

コピーレフトの考えでは、著作権保持者はそのコピー(複製物)の受取人に対して取り消しの出来ないライセンスを認め、販売を含む再配布を許可し、翻案(改変)されることも可能とする必要がある。逆に、コピーレフトを利用する側では、このライセンスのものをコピーや変更、再配布する時にはこのライセンスをそのまま適用し、それを明確に示さなければならない。

コピーレフトの定義をまとめると次のようになる。

著作物の利用、コピー、再配布、翻案を制限しない
改変したもの(二次的著作物)の再配布を制限しない
二次的著作物の利用、コピー、再配布、翻案を制限してはならない
コピー、再配布の際には、その後の利用と翻案に制限が無いよう、全ての情報を含める必要がある(ソフトウェアではソースコード含む)
利用、コピー、再配布、翻案のいずれにおいても、複製物又は二次的著作物にコピーレフトのライセンスを適用し、これを明記しなければならない
コピーレフト以外にもフリーソフトウェアのライセンスは数多く存在し、BSDやX Window Systemなどの、オープンソースソフトウェアで適用されているものがある。これらは二次的著作物へのライセンス適用や、使用可能なソースコードのコピーを義務づけていないため、コピーレフトではない。よく議論されることに、これらのライセンスとコピーレフトのどちらがより自由なライセンスであるのか?というものがある。これは視点の問題で、他のライセンスでは制作者など、現在のライセンス保持者の自由を最大限にしたもので、コピーレフトでは今後のライセンス保持者の自由を最大限にしたものだと考えることができる。

「コピーレフト」という語は1984年にドン・ホプキンスがストールマンに宛てて送った "Copyleft--all rights reversed" というフレーズが元になっている。

インセンティヴ論に基づく著作権制度という議論はあるものの、著作物を不特定多数の者が利用できるようにすることは、著作物をより発展させるための有用な手段となりうる場合がある。これは典型的な商業ソフトウェアが制作・流布される際に、複製や内的構造の研究(リバースエンジニアリング)や改変が禁じられているために、既存のソフトウェアを改良して新しいより優れたソフトウェアを開発する可能性が閉ざされている、という点を考えると分かりやすい。あるいは、インターネットを支える基礎的な技術はソフトウェアを共有し改良し合うことで発展してきたということを考えても良い。

一般に、芸術作品や評論、解説文、コンピュータプログラムなどを含む著作物は、その作者が著作権を持っている。そのため、作者の許可を得なければ改変したり、(個人的なバックアップを除いて)複製したり、配布・販売することはできない。しかし、このような制度の枠組みは、作品を共有して多人数で共同的な創造活動を行う際にはかえって妨げとなり得る場合がある。

そのためにまず最初に行われたのは、明示的に著作権を放棄したり(パブリックドメイン)、放棄はしないが「誰でも自由に使って良い」と宣言したり、という形で共有する方法であった。

ところが、本当に誰でも自由に使えることにしてしまうと、共有・発展という作者の意図に反するような利用が行われることもある。パブリックドメインの状態にある著作物を改変した場合、二次的著作物はパブリックドメインになるわけではなく、改変者に著作権が帰属することになるためである。

このような問題をストールマンが経験した際に、コピーレフトという発想が生まれた。シンボリックス社から、ストールマンが作成したLISPインタプリタを使いたいと打診された際、ストールマンは彼の作品のパブリックドメイン版を提供した。シンボリックス社はそのプログラムを拡張して更に強力なものにした。そして、彼のもともとのプログラムに対して拡張した部分を見せてくれるよう求めた時に、シンボリックス社はそれを拒否した。これは法的にはどうすることもできなかった。
(以上、ウィキペディアより引用)

勉強になります!

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2008年01月11日

かなりかっこいいです!

しかも時速はマッハです!

F-14はアメリカ海軍の艦上戦闘機。F-4の後継機としてグラマン社が開発した。愛称はトムキャット(Tomcat, 雄猫の意味)。

初飛行は1970年、部隊配備は1973年より進められた。 アメリカ海軍ではメンテナンスの容易さとコストの面から、同機よりも飛行能力が劣るもののF/A-18E/F戦闘攻撃機への機種転換が進められ、最後に残った戦闘部隊 VF-31トムキャッターズも2006年9月22日に解隊、アメリカ海軍の F-14 は全機完全退役した。

F-14は当初、F-111同様垂直尾翼が1枚だったが、海軍がそれに異議を唱え、垂直尾翼を2枚要求し、グラマン社は海軍の要求を呑み、結局垂直尾翼は2枚になり、1969年3月に最終案が採択。開発を急ぎたい海軍とグラマン社は、通常の開発方法(試作機を作って性能評価を行い、その結果を踏まえて量産型を制式採用/発注)といった手順を踏まず、クック・クレイギー計画(いきなり量産型の生産に入り、スローペースで生産する先行量産型でテストを行う方式。戦闘機ではF-102で初めて採用された)を採用し、まず12機の先行量産型を製造した。そして、先行量産型の各機に受け持ちの性能評価項目を振り分け、迅速に開発を行うこととした。当初初飛行は1971年1月を予定していたが前倒しされ、1970年の12月21日にチーフ・テスト・パイロットのロバート・スマイズとプロジェクト・テスト・パイロットのウィリアム・ミラーによって敢行された。この飛行は悪天候と視界不良のために短時間で切り上げられ、9日後に再度飛行テストが行われたが、着陸の際にランディングギアの油圧系統が故障。予備のシステムも作動せず、試作機は墜落。幸いパイロットは寸での所で射出し、軽傷ですんだ(この時製作中の12号機を1X号機として試験に割り当てたため、プロトタイプは都合13機)。


F-14Aの操縦席この設計ミスはすぐに修正され1971年5月24日に2機目のプロトタイプが飛行を行った。この試験機は低速度での動作確認、可変翼、および銃器の動作確認に割り当てられた。3機目は搭載重量を増やしての飛行、4、5、6機目はムグ岬の海軍基地でAWG-9/AIM-54の搭載、試験を行った。このうち5機目はスパローミサイルの発射試験で失敗し、1973年6月20日に墜落している。7機目にはエンジンの換装が行われF401が採用された。8機目は生産ラインのデータ確認に使用され、9機目、11機目はレーダーとその他のシステム確認に割り当てられた。11機目は地上の標的に対してバルカン砲での攻撃テストにも使用されている。10機目は海軍の試験センターで空母での発着を想定した試験に使用された。

海軍による最初の飛行テストは1971年12月16日に行われ、大変な好評を博している。翌1972年の6月15日に最初のカタパルトを使用した発艦試験がUSSフォレスタル(Forrestal)で行われ、6月28日に初の着艦試験が同空母上で行われた。この10号機はのち着艦に失敗し、パイロットは死亡している(オペレーターは同乗していなかった)。余談だが、搭乗員からはF-14は着艦の際の挙動の制御が難しいためビースト(獣)と呼ばれていた。
(以上、ウィキペディアより引用)

1機いくらすんでしょうね?

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2007年11月28日

X JAPANとは…

結成から東京進出まで仲むつまじい感じだったのにね。
残念ですね。

幼稚園の頃からの幼馴染だったYOSHIKIとTOSHIは、小学校高学年でアメリカのロックバンド「KISS」の話をするような少年であった。小学校6年生の時に「一緒にバンドを組もう」と約束をした、とされる。中学生の時に「DYNAMITE」(1978-1980)、後の「NOISE」)(1980夏-1982)を結成。中学校の予餞会が初ライブだった。通っていた中学校が生徒増加で分割してしまい、ヴォーカルが別の中学に編入されてしまった為、当初ギターだったTOSHIがヴォーカルになった。地元では進学校として有名な安房高校に進学した2人は、その後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年に始めたのがXだった。

当時のXは、コンテスト荒らしとして地元では有名なバンドで、TOSHIはバレーボール部と掛け持ちしていた為に、坊主頭で出場していた。

幼少の頃からピアノを習っていたYOSHIKIは、高校生当時「勉強もできてピアノも弾けるが、不良」という、学校にとっては厄介な存在だった。当時の様子をYOSHIKIは「バリカンを持った先生に館山市内を追い掛けられた」と、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に回想している。金髪リーゼントなのに期末試験ではトップクラスの成績、学校行事ではピアノを演奏するなど、当時から異彩を放っていた。

※ちなみに「笑っていいとも」などのトーク番組出演時に、YOSHIKIは他にも「ピアノの先生から『転ぶときは手をつかずに顔から転べ』と言われていた」などのエピソードも披露している。また上記「徹子の部屋」番組中、当時のX最高速曲は「Stab Me In The Back」だったにもかかわらず、過激過ぎると判断したのか、Xの1番速い曲として「ROSE OF PAIN」のツーバス連打部分を紹介している。

高校卒業後の進路として武蔵野音楽大学へ推薦入学するはずだったYOSHIKIは、クラシックに対して行き詰まりを感じ、入試1週間前の1984年1月に突如入試を断念してしまう。YOSHIKIは、ロックバンドとして成功する道を選び上京。TOSHIも、バンド活動の為に都内の調律の専門学校へ進学。こうして2人は活動拠点を東京に移した


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年11月06日

コンタクトレンズの種類と性能



最近つけ始めたけど、本当に楽チンです。
もっと早くつければよかった。

視力補正用レンズ

近視、遠視、乱視などを補正するための医療機器である(クラスIIIに該当)。同じく視力補正のために用いられるもの眼鏡との最大の違いは、コンタクトレンズは角膜の上に直接乗せ接触させる点である。材質によりハードコンタクトレンズとソフトコンタクトレンズに区別することができる。
日本における医療機器のクラス分類告示によれば、中分類名としての視力補正用レンズには下記の治療用コンタクトレンズ等も含まれるが、一般的名称(細分類)としての視力補正用レンズには、次のものがある。

再使用可能な視力補正用コンタクトレンズ

単回使用視力補正用コンタクトレンズ
単回使用視力補正用色付コンタクトレンズ
薄いブルーなどの色付きのレンズは、まぶしさを軽減させるためではなく、取り扱い時の視認性を向上させるためのものである。

治療用コンタクトレンズ

眼病の治療の目的で使用するものである。眼の保護、前房の封鎖、薬剤の送達、角膜曲率の変更、または網膜の治療での使用を目的とする。医療機器(クラスIII(高度管理医療機器))である。
検査用コンタクトレンズ
特定の眼科疾患又は状態の診断を支援するために用いる、眼の前面に装着するコンタクトレンズである。再使用可能なものと再使用できないものとある。また、隅角鏡のように目の前房隅角の検査に用いるものも広義では検査用のコンタクトレンズである。薬事法上、クラスII(管理医療機器)にあたり、次の種類がある。

眼科手術用レーザーレンズ

- 眼科手術用レーザとともに使用するレンズをいう。通常透明の物質で、眼球、眼窩又は周辺の皮膚の組織を凝固又は切断するために用いるレーザ光の治療部位へ導光するために用いられるものである。
単回使用検査用コンタクトレンズ

- 特定の眼科疾患又は状態の診断を支援するために用いられるものである。
網膜電位計用角膜電極 - 網膜電位の測定時に電位信号を伝達するため、角膜表面または角膜近傍の粘膜に接触して使用する電極である。

コラーゲン使用眼防護具

角膜を保護するために眼にのせるコラーゲン製の角膜シールドで、これも日本の薬事法上コンタクトレンズに分類される。クラスIIIである。

カラーコンタクトレンズ

カラーコンタクトレンズは、他のコンタクトレンズが無色透明なものであるのに対し、色を付けられたコンタクトレンズをいう。視力補正を目的とせず、虹彩部分の見た目の色を変えるために用いられることが多い。度の入っていないカラーコンタクトレンズは、日本においては医療機器に該当しないため薬事法による規制の対象外であり、販売に規制はなく、法によって定められた名称は存在しない。国によっては、販売に規制があることがある。日本では一般にカラコン等と略される。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年10月16日

黒部ダムについて調べてみました。

黒部ダム(くろべダム)は、富山県中新川郡立山町、黒部川水系黒部川に建設されたダムである。ダムに貯えられた水を利用している発電所が黒部川第四発電所(黒四)であることから、俗に黒四ダム(くろよんダム)とも呼ばれることがあるが、関西電力では、あくまでも「黒部ダム」であるとしている

黒部ダムは、富山県東部の黒部川上流に建設されたアーチ式コンクリートダム。発電に利用する水を確保することを主目的として関西電力によって建設された。ダムの高さ(堤高)は186mで日本一を誇り、現在でも破られていない。総貯水容量は約2億tで北陸地方で屈指の黒部湖(くろべこ)を形成する。日本を代表するダムのひとつである。総工費は建設当時の費用で513億円。これは当時の関西電力資本金の5倍という金額である。作業員延べ人数は1,000万人を超え、工事期間中の転落やトラック・トロッコなどによる交通事故等による殉職者は171人で、いかにダム建設工事が苦難を極めたかがうかがえる。完成直後の1963年には、NHK総合テレビジョンの技術者が放送用機材と中継用機器をダムまで持ち込み、ヘリコプターによる空中撮影も交え、鈴木健二アナウンサーの司会により生中継放送を行った。これは、当時はまだ貧弱な放送技術の限界に挑んだ中継であったが、見事に成功し、視聴者に黒部ダムのスケールの大きさと、技術者の偉業を知らせる事に一役買った。

黒部ダム建設の模様はNHK総合テレビジョンの人気ドキュメンタリー番組『プロジェクトX?挑戦者たち?』にて紹介され、2002年末のNHK紅白歌合戦では、中島みゆきが歌う同番組のテーマ曲『地上の星』を中島みゆき本人が歌った。ただし、歌った場所は黒部ダム内部ではなく、関西電力黒部専用鉄道の「黒部川第四発電所前駅」構内のトンネル内である。また、1968年には、三船プロ製作の映画『黒部の太陽』(主演:三船敏郎、石原裕次郎)において、黒部ダム建設の物語が描かれている。山崎豊子の小説『白い巨塔』では、主人公・財前五郎が金沢市での学会の帰りに黒部ダムを訪れている。一般に公開されていない場所も、財前は関西電力(実名で登場)の案内で足を踏み入れている。ただし、この場面は未だ映像化されていない。ダム観光施設の運営は、関西電力関電アメニックスくろよん観光事業部が行っている。